薄茶点前によって点前の基本を習ったら、濃茶点前へ進みます。茶の湯
では濃茶で客をもてなすのが最終目的であり、点前の手順だけでなく、
もてなしの心は何かを学ぶことが大切となります。
おいしく飲んでいただくための湯加減、茶の分量、練り加減を主眼にお
き、さまざまな点前を稽古していきます。薄茶と同じように炉と風炉に
よる点前の違い、棚の違いによる点前、茶入、仕覆の扱いなどを学びます。
そのようにして、点前だけでなく望ましい亭主ぶり、客ぶりも身につけ
ていきます。
<窯 かま>用語
膳所 ぜぜ
膳所焼(ぜぜやき)近江国膳所(大津市膳所)付近の陶器。
まず瀬田焼の名で(1615-24)ごろに起ったらしい。当時、
小堀遠州は近江奉行であったし、後に膳所城主となって瀬田
をも領した。菅沼定芳は遠州とも交友のある数奇者であり、
1634年これに代わった石川忠総は遠州の弟子であったことな
どから遠州の指導が考えられる。かくて膳所焼の名が上がっ
た。遠州好みの茶人として「大江」・「白雲」が有名である。
次いで1651本多下総守俊次が城主となり、後代、雀ヶ谷(大
津瀬田)に御用窯(雀ヶ谷焼)を築いた。また1804-30ごろの
交趾釉を用いた梅林焼も膳所焼の一種として知られている。
なお膳所焼の古窯としては大江窯・国分窯が著名であり、茶
陶を主に焼き、どちらも瀬戸系の陶法で鉄釉を特色とするが
大江の方は淡茶色で、釉調も特有の金気釉で格調が高い。現
在では染付・赤絵・金襴手・仁清写し・朝鮮唐津写しなども
焼成されている。
高取 たかとり
高取焼(たかとりやき)
福岡県陶器。1600年黒田長政が豊前中津から筑前福岡に転封し
た時、慶長の役で長政に従い来朝した朝鮮韋登の陶工八山(
高取八蔵)が、命により鷹取山麓の永満寺(直方市)に開窯
したのにはじまる。以来、数度にわたり窯場を移転させたが、
黒田家の御用窯として終始盛況を見せた。遠州七窯の一つ。
以下年序によって四期に分けられる。
「古高取」永満寺宅間開窯にはじまり、同地内ヶ磯に窯を移
し、八山の舅で肥後小代焼にいた韋登(井上)新九郎を招い
て、ともに製陶したもの。製品は日用雑貨から茶器へ進み、
質が堅く、茶褐色釉を施した上に斑に黒色釉をかけた物が多
い。左糸切。八山はすこぶる厚遇され、高取八蔵の姓名と七
十人扶持を給されたが、1624年忠之(長政の子)の怒りに触れ
て扶持を没収された。大和文華館蔵の「古高取茶碗」は、こ
の間に築いた山田窯(山田市)での作品である。
「遠州高取」寛永7年、八蔵・八郎衛門父子が再び召され、改
めて白旗山(飯塚市)の北麓に窯を築き、瀬戸の陶法をよく
した唐津城主寺沢侯の浪人五十嵐次右衛門を招き、ともに製
陶したもの。これに際し、八蔵は命によって山城国伏見に赴
き、小堀遠州から茶器の指導を受けた。遠州七窯の名はここ
に発する。以来三十年余、遠州好みの格調高い茶陶が数多く
焼かれ、茶入では「高取大海」・「腰蓑」・「染川」・「高
取耳付」「秋夜」・「横岳」・「手枕」(すべて中興名物)
などがあり、茶碗では腰面取の輪高台半筒茶碗が遠州切型と
知られ、「香久山」・「高取下面」などがある。
「小石原高取」1665年朝倉郡小石原に窯を移して製陶した物。
「東山高取」1708八蔵の子孫が福岡城下の麁原村上の山(福岡
市)に召されて築窯製陶したのにはじまり、明治維新に至る
まで連綿と続いた。藩は特に皿山奉行を置いて直接監督にあ
たり、その製品もはじめは抹茶茶碗・茶入・置物などに限定
され、焼成も年一回に限ってもっぱら精作を出すことに努め
、主に将軍や諸侯への贈答用に使われた。維新後は衰退。
立杭 たちぐいやき→丹波焼(たんばやき)
兵庫県多紀郡今田町の小野原・上立杭・下立杭・蒲屋の諸窯
の産をいう。小野原窯は1573-1644年にはじまり、工人に吉蔵
がいる。桃山時代以前の作は古丹波を呼ばれ、茶道具に採り
上げられた物は少なく、小堀遠州の好みで焼出したといわれ
る遠州丹波に茶陶として優れた物が多い。三角花入・生野茶
入・南蛮頭巾水指・束柴建水(京都民芸館蔵)など格調高い
物がある。1751-64年窯を立杭に移し、立杭焼の名で知られる
ようになった。
上立杭窯の組長右衛門は農閑に壷・鉢・徳利の日用雑記を焼
造し、「山長」の銘を付けた。
下立杭窯は、直作の世に至って精巧をもって知られるように
なった。なお、1804-30ごろの篠山藩の御用窯篠山焼も、立杭
焼または丹波焼と称せられている。
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