
こちらの地方では月曜日の夜に台風がやってきて、真夜中はすごい風の
音で私は寝られませんでした。
皆様の方ではいかがでしたか?被害がないことお祈りしております。
朝晩涼しくなって、しのぎやすくなりました。この頃から暑さに負けて
冷たい物の取り過ぎやクーラーの冷え過ぎの影響が出てくるようで、皆
様方、体にはくれぐれもお気をつけてください。
利休百首に「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」
と言う教えがあります。
けいこは一から十まで進んだからと言って、すべてを習得したと思って
はいけない、また改めて一から学びなさいということです。
これを繰り返すことによって、初めて点前の意味やさらに茶道の真意を
理解していくのです。
入門すると、まず点前の基礎である割り稽古を学びます。
帛紗の扱い、茶巾のたたみ方、扱い、茶碗の拭き方、茶筅通し。茶のす
くい方などを学びます。同時に、客の心得の基本として、茶と菓子のい
ただき方、拝見の仕方などを学んでいきます。
私も長年お稽古をしていると、知っていること、学んでしまったと思っ
ていた所作が勘違いしている時があります。そんなことにないように又
基本形の戻ってお稽古する必要があると思います。
<窯 かま>用語
清水 きよみず
清水焼き(きよみずやき)京都東山清水の五条坂近傍より
産出の陶磁器。伝承によると、僧行基が聖武天皇の勅を奉
じて愛宕郡清閑寺村茶碗坂において土器を製したことには
じまる。1449-52清閑寺村に音羽屋九郎右衛門という者が
いて、茶碗坂の遺跡を発見し、ここに深草の窯を移し陶器
を製したと言う。1573-16に至り、多数の名工が輩出して
音羽・清閑寺・小松谷・清水などに住し、慶長末に窯を五
条坂に移した。1624-44野々村清右衛門(仁清)が丹波から
出て清水三寧坂に窯を築き、京焼の発展に力を尽くし、元
禄時代には清水焼・音羽焼の井筒屋甚兵衛、音羽焼の音羽
屋惣左衛門、清水焼の茶碗屋清兵衛の三軒が本窯を所持し
たといわれ、おりから1712には乾山が五条坂辺りの借窯し
て雅趣に富んだ茶陶を製し、1804-18青木木米は中国の陶法
を研究し磁器類の焼成に力を注いだ。このころまた、高橋
道八(仁阿弥)・清水六兵衛・清風与平・和気平吉(亀亭)
・尾形周平・水越三兵衛などの名工が輩出し、有田焼の磁
法を導入・改良し、ついに金襴彩画などの美術品を製して
広く海外輸出の道を開いた。製品は茶器・盃・鉢・皿・碗
・花瓶・香炉などみな清雅優美なもの。登窯はいわゆる京
窯と称するもので、有田・瀬戸の窯に比べてはるかに小さい。
元贇 げんぴん
元贇焼(げんぴんやき)
中国明代末期の人陳元贇(1595-1671)が尾張名古屋で作
成した陶器。陳元贇は字を義都といい、既白山または升庵
芝山・菊秀軒とも号した。乱を避けて渡来し、1638年尾張
徳川家に客仕、名古屋付近で瀬戸の土を取り寄せ、安南写
し試み、呉須で独特の詩画を書き、上に白青色の透明な釉
を施した。鳳凰紋茶碗は有名。世人はこれを元贇焼を称し
た。藩命により御庭焼の御深井焼に関係したと伝えられる。
古曽部 こそべ
古曽部焼 (こそべやき)
攝津国島上郡古曽部村(高槻市)江戸時代後期に焼造され
た陶器。1790年五十嵐新平が京風の窯を築いたのがはじま
りで、代々古曽部の印を使用した。二代目新平は別名を一
単斎信楽と称し、国焼・南蛮・高麗などを写した。三代か
ら五代までは信平を称し、明治末期廃窯した。三島写し・
絵高麗写しなど写しものが多く、またくらわんか茶碗や海
老絵小皿なども焼いた。遠州七窯に加えられれいるが、創
始が江戸後期であるからまったく関係はない。
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